2016年08月16日
【お盆に想う 第6回~ジャーナリスト和多田進さん~】
今年6月22日にお亡くなりになった
ジャーナリストの和多田進さんを偲んで
和多田さんによる田野城のインタビュー記事を数回に分けて掲載します
(田野城は ”死に別れた” と思っていないそうですが)
今回はその第6回目です。
和多田さんとの初めての出会いは、
田野城が静養のために暫く移り住んでいた北海道帯広市
まわりは畑と林そして空の中
何故だかわからないが(直接、伺ったことがないので)
田野城に興味を持ってくれた和多田さんは
馬小屋を改築した当時の住まいまで訪ねてこられました
その時のインタビューが
『現代ニッポンにおける人生相談』(週刊朝日別冊1997年6月15日号)
に掲載されました。タイトルは
「日本の音楽業界になじめない私の理由」
以下、続きの転載です(和多田さん: WS、田野城: TH)
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「日本の音楽業界になじめない私の理由」
|生意気だ、お前なんか追放してやる!
と音楽業界のエライ人に
言われてしまいました|
WS:ニューイングランド音楽院はそれでも通ったんですか。
TH:通りました。でも、結果的には行かなくなっちゃうんです。
発表の前に日本に帰ってきて。日本に帰った後、ニューイングランドから
勉強しようじゃないかという返事をもらったんです。
でも1年間だけ日本で演奏してみようと。
WS:ようやく譜面が読めて吹けるようになったばかりなのに生意気だ(笑)
TH:むちゃくちゃ生意気だと思います。
アドリブができない人間が、吹いてみようじゃないかというんですから。
自分がどういうものなのか、たぶん試したかったんです。
ジャズクラブでは演奏するチャンスを与えていただけなかったので
多目的ホールみたいなところばかりで演奏していたんです。
そうしているうちに、キティレコードと3枚契約して、
結局28歳まで日本にいることになった。
それで1枚制作して、2枚目から問題が起き始め…。
WS:どういう問題?
TH:音楽とはいったいなんぞや、という問題に関して、
大きな隔たりがあることに気づきはじめたんです。
その隔たりが最終的には日本の音楽シーンと決別していくことになった。
要するにレコードの売り上げ枚数の高いものがいい音楽なんだ
ということなんですよね。
WS:キティレコードとの結末はどういうことになったのですか。
TH:当時、小椋佳さんの弟さんが会社のポジションの高い方でいて、
その方に田野城君、レコード契約が満期なのでこれで決別しようじゃないか
と言われたんです。それで僕は追放してくださいと言って本当にやめた。
こんな生意気なやつは見たことがないと言われました。
泣きを入れてくるのが普通なのに、何だおまえは、と言うわけ。
この業界から追放してやるって(笑)
それで途方に暮れてしまいましたけど、1年間ぐらいはゆっくり
考えようじゃないかと、考えたんです。
WS:またニューヨークに行った。
TH:そうなんです。結局はアメリカに行きたかった。
アメリカで通用しなくても、1からチャンスを与えてくれる
あのアメリカに戻ろう、と考えたんです。
日本のミュージシャンの方には、グレードの高い方はたくさんいらっしゃいます。
ですけど、その水槽というか、環境というか…自分が泳ぐ海が汚いんですよ。
東京湾のどろどろしたヘドロのところで泳ぐより、
珊瑚礁に行って気持ちよく泳ぎたかったということです。
WS:29か30歳のときですね。
TH:ええ。そのときにとんでもないことが起きたんです。
電通の部長さんからとつぜん電話をいただき、
何が何だか分からないまま出かけてみると
「きみの話はいろんな方から聞いている、きみは何がしたいんだ」と言われた。
「僕はアメリカとか欧米でやりたいんです」
「どういうことなの、具体的に言って」
「僕はモントルーに出たい。アメリカのジャズフェスティバルに出たいし、ヨーロッパで演奏活動もやってみたい」と言った。
そうしたら、本当にモントルーに出ることになっちゃった。
- 次回最終回 -
(スタッフより)