2016年08月11日
【お盆に想う】ジャーナリスト和多田進さん
(2015年6月21日 湘南国立大学校校長の和多田さんと)
本日は「山の日」ということですが
この時期はやはり「お盆」…ということで
今年6月22日にお亡くなりになった
ジャーナリストの和多田進さんを偲んで
和多田さんによる田野城のインタビュー記事を掲載します
(田野城は ”死に別れた” と思っていないそうですが)
和多田さんとの初めての出会いは、
田野城が静養のために暫く移り住んでいた北海道帯広市
まわりは畑と林そして空の中
何故だかわからないが(直接、伺ったことがないので)
田野城に興味を持ってくれた和多田さんは
馬小屋を改築した当時の住まいまで訪ねてこられました
その時のインタビューが
「現代ニッポンにおける人生相談」(週刊朝日別冊1997年6月15日号 )
に掲載されました。タイトルは
「日本の音楽業界になじめない私の理由」
以下、転載です(和多田さん:WS、田野城:TH)
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「日本の音楽業界になじめない私の理由」
|楽器も英語もできないけれど、
アメリカの音楽学校目ざして
飛んでいってしまった僕|
WS: 高校を卒業するまで田野城さんは楽器を扱ったこともなく、
楽譜も読めなかったそうですね。
TH:高校を出るまでは大学に行くのか何をするのか、
全然決めてなくて、とりあえず長く外国に滞在したい
と思ってたんです。
それで留学を考えました。
高校からジャズを聴き始めて、本場の人たちが何を食べて、
何を見て、何を考えているのか知りたかった。
後に僕の先生になってくださったデイブ・リーブマンに
すごく興味を持っていて、ぜひ会いたいと思いました。
住んでいる所は知らなかったけど、
アメリカに行けばいるだろうって。
ジョージ・ラッセルというコンポーザーの方や
ジョー・アラッドと言うサキソフォンの大先生にも会いたかった。
WS:マニアックだったんだ。
TH:そうですね。
当時はフォークソング全盛期の時で、
ギターの弾き語りが出来る人はクラスの人気者だった。
で、僕はといえば、教室の片すみで
スイング・ジャーナルを読んでいた。
変人扱いされていたんです。
でも本場ジャズの音楽家達を知るためには
楽器をやらなきゃいけない。
それで僕はサックスを選んだわけです。
WS:でも…。
TH:縦笛くらいは吹けました。
アメリカに行く前には楽器も買った。
- 続く-
( スタッフより)