2016年08月14日
【お盆に想う 第4回~ジャーナリスト和多田進さん~】
今年6月22日にお亡くなりになった
ジャーナリストの和多田進さんを偲んで
和多田さんによる田野城のインタビュー記事を
数回に分けて掲載しています
(田野城は ”死に別れた” と思っていないそうですが)
今日はその第4回目です
和多田さんとの初めての出会いは、
田野城が静養のために暫く移り住んでいた北海道帯広市
まわりは畑と林そして空の中
何故だかわからないが(直接、伺ったことがないので)
田野城に興味を持ってくれた和多田さんは
馬小屋を改築した当時の住まいまで訪ねてこられました
その時のインタビューが
『現代ニッポンにおける人生相談』(週刊朝日別冊1997年6月15日号)
に掲載されました。タイトルは
「日本の音楽業界になじめない私の理由」
以下、続きの転載です(和多田さん: WS、田野城: TH)
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「日本の音楽業界になじめない私の理由」
|わかった、じゃあ一緒に勉強しようね
ってアメリカの先生が言ってくれて
試験に合格|
WS:楽譜が読めなくても入れてくれる音楽学校があった!
TH:あるんです。ふところがメチャメチャ広い。
それにアメリカの大学の先生のすごいところは、
まずはみんなフラットに教えてくれます。
グレードの違いがあってもチャンスは広げてくれる。
みんなに門は広げるけれど、プロとしてやっていけるか
どうかは別だという意味の厳しさも教えてくれる。
1年目の寮生活で、日本でしか生活をしたことのない僕は
白人と黒人との3人部屋になったんです。
映画で見る以外の外人と生まれてはじめて一緒に生活をしたわけです。
世六時中、朝も昼も晩も、寝ているときも起きているときも。
これが最初の大きな驚きでした。
僕は技術がなかったですから、本当に謙虚な気持ちで
勉強することができました。
ジョージ・ラッセルはバークリーにはいらっしゃらなかったので、
ニューイングランド音楽院の教授の方々とボストン・シンフォニーの方々
の力をお借りして会わせてもらったり、特別に彼の自宅でレッスンを
受けさせてもらったり、またデイブ・リーブマンの下で
勉強ができるようにもなりましたし、ジュリアードのOBの方の力を
お借りしてジョー・アラッドにもサキソフォンを習いました。
WS:バークリーのときですよね。
TH:そうです。
WS:譜を読めるようになるのにだって時間がかかるでしょう。
TH:すごく時間がかかりました。
これがドで、これがレで、これがミなんだよと教わったんです。
先生が「音楽がわからないから音楽大に来たんだろう、
何も嫌がることはないよ」と最初におっしゃってくださった。
最初のオーディションはアンディ・マギーという黒人の先生で、
ランクの振り分けが決められます。
WS:緊張したでしょ。
TH:楽器を持ってノックすると、入ってこいと言うから、名前を言って、
ジャパンから来たとか言ったんです。
「OK、OK、この譜面を読め」読めるわけないじゃないですか(笑)
なんとか、ボヘーと音が出せるだけで演奏なんてまともにできっこない。
するとマギー先生が「そうか、譜面は読めないんだな、わかった。
じゃあブルースをやろう」ってピアノで12小節のジャズのブルースを
演奏してみせた。ワンコーラスを終わっても吹けない。
「おまえはなんで吹かないんだ、ブルースが吹けないのか」
「ブルースっていうのを知らないんです」
日本の演歌のブルースしか知らなかったんです。
『夜霧のブルース』みたいなの(笑)本当なんです。
僕は、これで学校を追い出されてしまうかもしれないと思った。
でも先生はニコッと笑って「OKだ」と言うの。
「わかった、じゃあこれからいっしょに勉強しようね」って。
これからサキソフォンはこうやって吹くんだよ、持ち方はそうじゃない、
こうやって持つんだよ、ああやって持つんだよということを教わって、
それでだんだんと力がついたかどうかは知りませんけど、
一応吹けるようになってしまったんです。
WS:そうなるまでにどのぐらい時間がかかったのですか。
TH:4年間ぐらいかかりましたね。
楽譜を読むのがすごく遅いほうで。
音は比較的バへーッと鳴っていたけど譜面を読めない、
ジャズもできないという、まれな生徒だったみたいで
先生も驚いていましたね。
- 続く -
(スタッフより)