2016年09月01日
【転載 『楽譜のいらない音楽授業』_ 第7回 ♪一期一会 -フィラデルフィアの夜- ♪ vol.3 】
肺炎でドクターストップを受けた田野城は
ニューヨークレコーディングを中断し、
音楽業界から暫く退いていた時期があります。
その間、自身の経験から強く音楽教育に関心を持ち、
さまざまな垣根のない教育実践を行ってきました。
その活動が10年目に入った頃、和多田 進さんから
お声をかけていただき、和多田さん編集長の地域ポータルサイト
『北海道人』にて初めてのメルマガ連載を担当させていただきました。(2007年3月)
「好きなことを自由に語っていい」ということで始まった
『田野城寿男の「楽譜のいらない音楽授業」』。
演奏家に本格復帰を決意するまでの約1年6ヶ月続いた記事の中から
スタッフが選んだいくつかを皆さんとシェアしたいと思います。
型破りで破天荒な田野城の半生や、考え方が読者の皆さんの清涼剤になれば幸いです。
では、一期一会 vol.3 をどうぞ。
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画像引用元:日系アメリカ人
【 ♪一期一会 -フィラデルフィアの夜- ♪ vol.3 】
あの3日間の滞在は今でも忘れられない私の宝となっています。
それは、彼ら家族がアメリカで経験してきた
貴重な生き様を知る機会であり、
かつて一度も学校の授業で聞いた事のない、
私の知らない歴史の時間となりました。
一家の名前は「オオエ」。
慶応義塾大学、津田塾大学出身のご両親は、
移民としてロスアンゼルスで農場を営んでいた。
努力が実り、地元ではかなりの規模の
農地と財産を手に入れる事ができた。
そんな矢先、第二次世界大戦へ巻き込まれてしまう。
それまでに築き上げてきたすべての財産は没収された。
そして、「日本人」として差別を受け、
周りには何も無い砂漠の強制収容所に入れられた。
与えられる食べ物も少なく、毎日厳しい労働に明け暮れた。
そこで、多くの日本人が亡くなったという。
また戦争が長引き、アメリカ兵の不足という理由で、今度は強制収容所から一転し、
「アメリカ軍の外人部隊」として戦地へ駆り出された。
オオエさんはこう言った。
「私たちを支えたのは、日本人としての誇りだけだった」
ー 続く ー
(スタッフより)